2012年5月23日水曜日

『対魔導学園35試験小隊 1.英雄召喚』柳実冬貴、切符



魔力を持つ人間が滅びようとしている世界―武力の頂点の座は剣から魔法、そして銃へと移り変わっていた。残存する魔力の脅威を取り締まる『異端審問官』の育成機関、通称『対魔導学園』に通う草薙タケルは、銃が全く使えず刀一本で戦う外れ者。そしてそんなタケルが率いる第35試験小隊は、またの名を『雑魚小隊』と呼ぶ、劣等生たちの寄せ集めだった。しかしある日、『魔女狩り』の資格を有する超エリートの拳銃使い・鳳桜花が入隊してくる。隊長であるタケルは、桜花たちと魔導遺産回収の任務に赴くのだが―。甦る『英雄』を地に還すのは少女の銃か、少年の剣か!?学園アクションファンタジー。
柳実冬貴は、彼がこれまでに書いた二つのシリーズを見てみれば明らかなとおり、弱い者が強い者に勝ったりだとか、少なくともその弱さを克服して活躍する、という物語を書いてきた。ライトノベルというジャンル・業界が、中高生に向けて作られた小説であるにもかかわらず、ほとんど反教育的だとすら言える白痴的な物語を大量にのさばらせている現状を見た場合、彼の描く登場人物たちの素朴な成長物語は、それだけで非常に啓蒙的であった。前作『Re: バカは世界を救えるか?』が、中二病患者の弱さを扱っていたのに対し、今回の『対魔導学園35試験小隊』は、「雑魚小隊」の面々の、社会不適合性が扱われている。「雑魚小隊」のメンバーは、個人の能力としては雑魚ではなく、むしろ優秀と言えるくらいなのであるが、その性格に問題があり、能力を成績に反映させることができない。

このような設定は、人によっては「発達障害」だとか「アスペルガー症候群」などという言葉を連想させるかもしれない。射撃の腕前は一流なのに極度のあがり症で、本番ではいつも失敗してしまう西園寺うさぎ。整備開発の腕前は一流なのに偏執狂的に狭い対象に興味を注いでしまい、他人の持ち物まで勝手に改造してしまう杉並斑鳩。そして、剣術以外に何のとりえもなく、剣のことをバカにされると見境無くキレてしまう若者である、主人公の草薙タケル。この三人の「雑魚小隊」の中に、タケルと同じくキレる若者であるヒロインの鳳桜花が入ってくることにより物語は進行するのであるが、これらのメンバー全員の「問題」が、すべて本人の意思を無視して降りかかってくる持病のようなものとして描かれているのが特筆すべき点である。彼らの抱える「問題」は、彼ら自身の思想信条から導き出されるものではなく、むしろ自分の意思ではほとんどどうにもできない「症状」なのだ。

そして本作は、この「症状」と彼らがどう向き合い、これを克服していくのかという過程が描かれる。当然、弱い者たちの共同性が描かれ、その絆によって「症状」を克服し、本来の能力を発揮し、活躍していく話になるという展開は、それ自体で重要であるし、強調しすぎてしすぎることはないと思うのだが、「症状」を持つ弱い者が、一体どういう存在であるのかを他作品と比べて考えてみることは有益だろう。たとえば最近出た西尾維新の『悲鳴伝』では、人間らしい感情をほぼ一切持たない主人公が描かれたわけであるが、人間としての機能が壊れている、という意味では、「雑魚小隊」のメンバーの諸「症状」も、『悲鳴伝』の空々空の無感情も、同じであると言える。あるいは『雨の日のアイリス』における三人のロボットが、ロボットとして描かれざるを得ない空虚化した現代の人間の表現だとすれば、彼らが人間社会から単なる労働機械としてしかみなされておらず人間性や社会性から疎外されているという意味では、やはり対魔導学園の社会に適応できず疎外されている「雑魚小隊」の面々と同じだといえる。しかし、『悲鳴伝』と『雨の日のアイリス』とが全く異なっているのは、彼らのような人間として不完全な存在と社会との距離感の描かれ方であろう。『悲鳴伝』は社会を完全に敵対的なものとして描き、唯一主人公である空々空が心を開いたのは、ヒロインという性的な対象だけだった。そして、そのヒロインを空々空から奪おうとするのもやはり社会なのであった。空々空は感情を持たないにも関わらず、感情を持つかのような振りをして社会を謀り、社会的な人間達を殺戮する。対して『雨の日のアイリス』は、同じく社会を敵対的なものとして描きながらも、三人のロボット達が自分達自身の社会を作ることによって戦う話を描いた。この二作では向いている方向がまるで逆なのである。そして、現に戦いを可能にする条件としてどちらが優れているのかは言うまでも無い。

自分の意思ではどうにもならない「症状」を、「雑魚小隊」で互いに助け合って克服してゆく、という筋道を持つ本作が、立場的に『雨の日のアイリス』に近いことは明らかであろう。この点に関しては基本的に私はこの小説を評価するが、隊長である草薙タケルが唐突に鳳桜花のことを「放ってなんておけな」くなってしまうのは解せない。この問題点は、「症状」持ち同士の連帯が生まれる大変重要なポイントに関わるものである以上、決して瑣末な「ツッコミ所」にとどまる話ではない。苦悩を媒介してつながりあう関係を描いた小説として、私は『マリア様がみてる』を名作と考えるが、本作にも一巻における祐巳と祥子のように、展開の丁寧さが求められてしかるべきであった。革命力37。

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