2012年5月27日日曜日

『ベストセラー・ライトノベルのしくみ キャラクター小説の競争戦略』飯田一史


『生徒会の一存』『バカとテストと召喚獣』『とらドラ!』『ゼロの使い魔』『とある魔術の禁書目録』『鋼殻のレギオス』そして『涼宮ハルヒの憂鬱』・・・・・・。 シリーズ累計で数百万部を売り上げ、いまもっとも読者を獲得しているジャンルであるライトノベルから、作品論、メディア論、顧客分析、競争環境分析を駆使して、市場で勝つ戦略までを解き明かす。 Amazonランキングで1位になったライトノベル作品を徹底分析。
 著者はこの本を学術書ではないと述べているし、自分自身でこの本の限界をわかっているだろうから、「Amazonランキングで1位になったライトノベル作品」つまりベストセラー・ライトノベルだけを分析して売れるライトノベルの性質が明らかになるのか、安定して2番手3番手をキープし続けるライトノベルや、ベストセラーにはならずとも作家性によって独自の客層をつかんでいるライトノベルには妥当しないのではないか、という疑問(たとえば本書では川上稔や十文字青などのライトノベル界において極めて重要な作家の小説は一切分析されない)だとか、本書で扱っている作品はそのほとんどがアニメ化した作品であり、つまりメディアミックス作品であって、メディアミックス後に原作の売り上げが伸びるということは著者本人も論じていることであるから、

商業作家としてデビューできるかどうかギリギリのラインの作品が生み出すキャッシュフローを1とすれば、ベストセラー作品は100以上なのだ。(25ページ)
という断言、つまり私なりに短絡化して解釈しなおせば、「最終選考落選作品」みたいなギリギリでデビューできた作品が1万部くらい売れるとしたらベストセラー・ライトノベルは100万部くらい売れるのだというような言い方は、作品論によって分析できる内在的な要素よりも、メディアミックスにより原作小説が拡散されるという外部的な要素のほうが、1万部と100万部の間に横たわる99万部の理由として大きいのではないか、という疑問には答えないし、仮にメディアミックス以前からベストセラー化したライトノベルだけを扱ったのだということなのであれば、本書が大半を費やした作品論が説明するものは、メディアミックス前の、1万部作品と10万部だか20万部だかの「ランキング1位」作品の差を生み出す要素だけであろうし、また外部的な要素に恵まれずベストセラーになれないままでいるがアニメ化さえすればベストセラーとなりうるような<潜在的ベストセラー・ライトノベル>の可能性への考慮が欠けている以上、この本は徹頭徹尾「あとだしじゃんけん」なのであり、売れるラノベの本質を本当に分析できているのかどうかについて疑問が拭えず、私としてはこの本の論理的な正しさや実証的な正しさのようなものは一切判断保留にしてこの本を読んでみたいと思う。「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」という四要素と、それが作品論の中でベストセラー・ライトノベルの中にすべて含まれていることを実証していく過程で、個別の作品の「どこが楽しいのか」「どこがネタになるのか」「どこが刺さるのか」「どこが差別化要因なのか」という点を述べるくだりに関して、ほとんど断言調と言っていい粗さがあることを考えると、冒頭にくだくだと紹介された各種の「数字」は目くらましに過ぎないのではとすら思えてくる。しかし、この「粗さ」のみをもってして本書の価値がないとするのは拙速で、確かに本書の論理の運びは粗くはあるがおそらく8割程度は妥当するとみなしてかまわないと感覚的には思うし、この「粗さ」にこそ著者の「ラノベ観」「オタク観」のようなものが如実に表れていると思うし、「売り上げ至上主義」と見間違いしかねない本書の中立的(に見える)スタンスの冷徹さの奥に隠れているある態度をこの「粗さ」から見出すことができるのではないかと私は考えている。ちなみに細かいことではあるが私がもっとも不同意だったのは、
彼らが『ハルヒ』を支持したのは『エヴァ』以降の「セカイ系」に至る流れで理解できるものだったからである。『ハルヒ』の主人公キョンは、何かにつけてウダウダ言って斜にかまえているキャラクターだが、これは『エヴァ』のシンジが消極的な性格だったことから派生したキャラ造形と言える。(254ページ)
という箇所である。 シンジと同じ十四歳にして『エヴァ』に直撃し、大学時代に『ハルヒ』を興奮しながら読んだ、典型的なオタク第三世代の私は、キョンをシンジの系列に連なるキャラクターだとは全く思わなかった。むしろキョンは、みくるに対する性的な憧れを率直に記したり、破天荒なキャラクター達が登場する中では高校一年生にして最も成熟した常識を体現する役回りを与えられている点で、脱シンジ的なキャラクターだと感じたし、どうしても自己の実存を投影して暗いイメージが拭えない『エヴァ』に対して、南国的・アジア的なオプティミズムをすら有しているように感じられる『ハルヒ』を、『エヴァ』とは全く違うものとして私は受け入れていた。そもそも、シンジが本当に消極的な性格なのかどうかについても議論の余地があるように思われる。シンジは場の空気を読もうと頑張る事にかけてはむしろ積極的だったのではないだろうか。また、アスカの挑発に簡単にのせられたり、ミサトから評価されると有頂天になって失敗したり、時には父親を脅したりと、なかなかの激情家とすら言える側面ももっている。とはいえ、このような些細な部分をこまかく論じることはそんなに実りがあるとは思えないし、キョンとシンジを敢えて同じ系列に置くことはそれはそれで価値がないこともないと言えそうなので、これくらいにしておこう。

本書はライトノベルという媒介項を経ることによって世代論、若者論の書としても読めるようになっている。オタク第四世代とは先行する世代に比してライトノベルをよく読むようになった世代であり、そのライトノベルを分析することによってオタク第四世代のメンタリティもある程度わかる、という風に。たとえばそのメンタリティのひとつは、以下のように著者が述べるようなものだ。
オタク第三世代の消費行動を指して東浩紀は「動物化」していると形容したが、第四世代は「動物」というより単に「素直」である。

日本のサブカルチャーは(ヤンキー文化をのぞけば)八〇年代以来の新人類/サブカルにせよ、オタク文化にせよ、それ以前の六〇年代アングラにせよ、おおむね高踏的であったり、シニカルであったり、ようするにひねくれた、スノッブな「違うのわかるひと(原文ママ)」向けの表現を好んできた。極端な抽象(中傷)をすれば、頭はいいが「性格の悪い」斜に構えた人間たちに支持されてきた。
しかし、第四世代オタクは「性格がいい」。第一世代や第二世代の屈折に比べればはるかに「素直」に映る。 
また、第三世代を評した「動物」は、「ニート」「ひきこもり」同様に社会退行的な印象がつきまとう表現だが、『俺妹』の高坂京介や『禁書』の上条当麻を支持する「素直」な第四世代は、家族や仲間、社会のために何かするのがいいという社会意識を素朴にもっているように見える。(280ページ)
 このように、オタク第三世代に比べてオタク第四世代を「擁護」しているの観すらある書き方をする著者は、別の箇所において、SFやミステリとして評価できるようなライトノベルが必ずしも売れない理由について、以下のようにも述べる。
SF小説ならば設定がたくさん必要で、つまり「めんどくさい」「うざい」「重い」と読者に思わせてしまう。ミステリはヒトが次々惨殺されることが「重い」「暗い」「グロい」、または密室トリックや大量の登場人物が「めんどくさい」と感じさせてしまう。つまり書き手が相当に工夫しないと「楽しい」「ネタになる」「刺さる」というライトノベル読者のニーズに響くものにならないからです。(311、312ページ)

著者が、必然的に「めんどくさい」を含まざるを得ないがその分SF的「センス・オブ・ワンダー」やミステリ的「サプライズ」による面白さを含むSF小説やミステリ小説の価値を、ライトノベルに比べて劣るものとみなすのでなければ、ライトノベル読者、そしてその中核をなすオタク第四世代の読者は、相対的にこれらの「めんどくさい」に耐えられない人々なのだということになる。中高生だから「めんどくさい」に耐えられないんだというのは理由にならない。事実、オタク第一世代や第二世代の人々は、中高生時代から、早い人は小学生時代から、ただでさえ「めんどくさい」海外SFや海外ミステリを、さらに「めんどくさい」読みにくい翻訳文で読んでいたということが珍しくない。中高生だろうが小学生だろうが、「めんどくさい」に耐えることはできるのだ。そしてそれを面白いと思うこともできる。

ここで思い出したいのは著者も言及している東浩紀の「動物化」であるが、この東の動物という概念は哲学用語から来ていて、哲学者アレクサンドル・コジェーヴあるいはヘーゲルが人間と動物を分ける枠組みとして、人間を環境否定するもの、動物を環境否定しないもの、と区分したことに由来している。環境否定がどういうものを意味するかはまた難しい問題ではあるが、平たく言えば主体性を持っているかどうかが東の『動ポモ』における重要なポイントであった。性的マイノリティが主体的に自分の特殊なセクシュアリティを受け入れるようには、動物的なオタクたちは自分の二次元的で身体的で即物的なセクシュアリティを受け入れることをしない、という風に東は述べている。オタクがそれをしないのは、端的に「めんどくさい」からだと私は思う。そして、「めんどくさい」から主体性を持たないということは、つまり「めんどくさい」の労を惜しんで環境否定しないということだと考える。

仮に、ライトノベルに親しんだオタク第四世代が、著者の言うように「めんどくさい」を忌避する性質を持つ傾向があるのだとする。著者は第四世代のオタクたちを「素直」であり「家族や仲間、社会のために何かするのがいいという社会意識を素朴にもっているように見える」と述べているが、しかし「めんどくさい」環境否定を回避した上でのライトノベル的「社会意識」は、複雑な社会問題に取り組む上での正しさについていけるだろうか。「斬って燃えて爆発」というような見た目の派手さを社会問題や政治に関する言説においてはもっとも警戒せねばならないはずだ。そして、素朴に家族や仲間や社会のためになにかするのがいいという社会意識は、簡単に特定のイデオロギーやプロパガンダに糾合されやすいメンタリティのことをも意味しうるのではないか。傍目には暴力的な右翼や左翼も、あるいは気味が悪い新興宗教も、当事者の主観としては極めて公正な社会正義に則っているという「社会意識」に基づいているはずだ。そう簡単に社会的な正しさを体現できるものなど存在しないし、社会的な正しさを騙るものを懐疑することこそ本質的な<社会的な正しさ>なのではないだろうか。そして、「めんどくさい」を回避した「社会意識」として私が典型的だと思うのはポピュリズムやボナパルティズムである。

また、著者の設定した「楽しい」「ネタになる」「刺さる」「差別化要因」という基本的な四要素は、実は東の動物化理論の枠を超え出るものではない。東は物語の動物的消費に最適化されたものとしてウェルメイドという言葉を使うが、これは、読者を一定時間飽きさせず、適度に感動させ、適度に考えさせるような物語のことである。一定時間飽きさせないのは「楽しい」あるいは「ネタになる」に対応するし、適度に感動させるのは「刺さる」に対応するし、適度に考えさせるのは「ネタになる」に対応するだろう。また、「差別化要因」とは個々の作品の基本的なオリジナリティのようなものを意味しているに過ぎないから、その作品が既存の作品のパッチワークに過ぎなくとも、そのパッチワーク性を「差別化要因」として解釈することも可能であるから、実質的にいくらでも後付け可能である。あたかも『エヴァ』がそうだったように。その意味で、ベストセラー・ライトノベルは全くウェルメイドな物語(=動物的消費に最適化された物語)の範疇に収まってしまうと思われる。

そして、私の印象として、この本の論理の運び方の「粗さ」は、特に個々の作品の「この部分が読者にとって楽しいんだ」「この部分が読者にとって刺さるんだ」「この部分がネタになるんだ」「この部分が差別化要因なんだ」と言う風に、作品に対する読者の反応を想定していく作業の上に唐突に現れてくるようなのだが、このことは著者がライトノベル読者へのある種の「侮り」のようなものを持っているからだと推測することは不可能ではないと思う。つまり、「これが楽しいに違いない」「これが刺さるに決まってる」という風な独断の上に本文の論述があると見て取れる。

本書は、作品論と世代論を読んでいくと、どうやら東浩紀の「動物化」はオタク第三世代にしか妥当せず、オタク第四世代には別の原理が有効なのだということを示すということが、その意図の一つとしてあるようなのだが、しかし『動ポモ』をもう一度読めば本書がオタク論・世代論としては一歩も『動ポモ』が示した概念を超え出ていないことが明らかになると思われる。それどころか、本書の世代論的なオタク第四世代に関する記述は、オタクがますます動物化していることの証明ででもあるかのようである。逆に言えば、それほどまでに東の動物化理論は我々オタク第三世代の意識を縛っていると考えられる。本書の試み自体は大変斬新で尊いと思うが、実際には東の優越性を自ら示したにとどまってしまったという憾みを抱かざるを得なかった。この本に続いて(あるいは乗り越えて)ライトノベル論とオタク論と社会評論を縫合する新しい時代のサブカル批評家が登場するのを期待する。

ちなみに、ギャグのつもりなのかもしれないが、現実の経営学の理論を物語の世界観や人物たちに当てはめるのは短絡的だ。物語内部の描写が経営学の理論に則っていなくとも、エンタメとして面白くて売れるのであれば、本書のスタンスとしては全く問題ないはずだ。このキャラは経営学上のリーダーの資質が欠けているからこの作品は失敗した、みたいな記述があるのだが、それとこれとは明らかに別だろうとツッコマざるを得ない。笑うところなのかどうなのか。

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